可能性の地震予知学
安芸敬一 著(未完)
本文の出典:はしがきと第1章の前半は、久田嘉章先生から提供された日本語原稿(Wordファイル)による。第1章の後半(「私の蒔く種を育ててくれた土壌として…」以降)と第2章は、旧Mr.AkiHomepageに画像として掲載されていたページ(15〜23ページ)から書き起こした。原文の誤字と思われる箇所はそのまま残し、〔ママ〕を付した。詳しくははじめにを参照。PDF版
はしがき
アメリカ南西部の乾燥地帯にパパゴというインデアンの種族が住んでいる。そこは大変貧しい土地なので隣の戦争好きのアパッチ族すら攻めて来ない。たまに降る雨水で豆を育てて生きている。彼等の会話はひそかな笑い声のようであるという。この種族の男は一生の間に何か冒険をしなくてはいけない。例えば絶壁の上の鷲の巣から羽根を盗み取るとか砂漠を越えて太平洋の岸に行き塩の塊を取ってくるとか。しかし冒険だけでは足りない。それを歌にして皆の前で歌わなければいけない。それが受け入れられればその男の一生は完成するという。
私の学生時代には地震学は今のように社会的に重要視されてなく、いわばパパゴの住む貧しい土地であった。その頃隣人に電車のなかで会い大学で何をしてるかと訊かれ、地震学を勉強していると答えたら、まじまじと私の顔をみて、まあそういう人があってもいいですねといわれたことを覚えている。 私が地震学を選んだのは子供の頃から好きだった自然を相手にできること、しかし記憶が苦手で生物学は駄目、数学と物理を使う地球物理学ならなんとかなるだろうと思った。それから50年の間パパゴに習って幾つかの冒険をした。それをパパゴに習って歌にするのがこの本の意図である。これが皆に受け入れられれば、私の一生は完成するという次第である。
この本をどういうスタイルで書くか考えているうちに、100歳に近い母から読みなさいと言はれた五木寛之の大河の一滴という本を思い出した。読み返してみてこれは普通の自伝のスタイルでなく色々と思っていることを真直ぐに述べながら、結果として自伝となっている点私の意図する所にぴったりであると思った。彼と私とは生活の立て方や人生経験で随分違うけれど行き着いた所は同じらしい。出場人物もお釈迦さま、老子、空海 など私が敬愛してきた人が多い。しかし読み終わって感じたことは私が科学者として一生を過ごした幸福である。多分謙遜心からだろうが、五木氏は若い苦労した頃を黄金時代、マスコミの仕事をした頃を青銅時代、作家として成功されてからを化石時代と呼んでいるが、私は現在を一生のダイヤモンド時代と思っている。科学の有難さは仕事の結果が積み重なり末広がりになること、私自身大河の一滴どころか大河そのものになったように感じることさえある。これはガリレオ以前と以後に人間の見つけた真理の質的な違いによると私は思っている。400年まえ人類史上初めて、ガリレオが発見したこと、つまり物理現象に数学がつかえること、宮沢賢治が <ああ傾角の増大はtの自乗に比例する>と歌ったこと(これは最近いくら探しても原典がみつからないので私が賢治を真似て自作したものかも知れない)、それによって天体運動の正確な予知ができるようになったこと。科学的真理は人類の遺産として人類の生存する限り役に立っていくこと。誰が如何して見つけたかはいずれ忘れられるけれど、発見者は永遠に繋がるという満足を味わう。この科学者の幸せをこの本で伝えられたらと願う。しかしこの永遠が人類の生存にかかっていることはこの頃の世界の事件をみるにつけ、はかない思いでもある。
第1章 可能性
印度洋の青い空に又日が昇る。10年前ここに来て始めて空の青と海の青の違いに気がついた。私はカリフォルニアの海岸に永いこと住んだけれど65歳でこのレユニオン島に移るまでこの違いに気がつかなかった。室生犀星の白鳥の歌にもこの青さの違いを感じなかった。
空の青は純粋であり海の青は複雑である。ガリレオ以来の数学による物理現象の理解とありのままの自然現象の対比をおもわせる。数学が物理現象に応用できるということは将来を正確に予測出来るということであり、400年前のガリレオの玉を転がす実験がその出発点であった。私がこの火山島に住み着いたのは世界で最も噴火の頻度の高い所で一生かけて習った地震物理学の方法を噴火予知に試したいと思ったからである。
海の青には生き物の存在を感じる。ここに来て絵を習ったフィンランドの女性サリによると一番難しい色は緑、確かに目の前の野原を見ると若い黄色から老いた褐色まで複雑に絡み合っている。しかしこの絡み合いは永い年月をへて調和し、ここでみる海の青は空の青と野原の緑の間にぴたりと収まっている。
レユニオン島の火山、フルネーズ、のマグマの源も深くて古い。印度のデカン高原は昔印度がアフリカにくっ付いていた頃に同じ源から来た産物といはれている。したがって これほど調和に満ちた火山は考えられない。しかもこの火山は地質学的にみて全く孤立していてガリレオに学ぶ物理数学の方法を適用しやすい。
私が地震学を志したのは自然現象の複雑さと調和に惹かれたことと自分の記憶能力の不足から生物学は駄目、地球物理なら何とかなるかと思ったからである。東京大学の地球物理科の入試課目が数学と物理と英語だけだったことも有難かった。当時は科学者として生活をたてることは冒険であった。私の祖父は港湾、父は河川、弟はダムと工学一家である。幸い父は視野の広い政治力のある人で河川工学だけでなく自然災害を含めた日本の資源問題に多数の科学者を動員して取り組んでいた。東大入試の前に父に、おそるおそる地球物理をやりたいと言った時、それはよいことだと言下にいわれたのは嬉しかった。60年程前のことである。
東大の学生の頃、ある日地球物理教室の裏庭にぼんやり立っていたとき、突然私の一生の目的は地震予知だと思った。その思いが今も続いている。この本の題にも地震予知と書いた。もう一つの可能性という言葉程私の一生を暖めてくれたものはない。可能性というのは既に決まった過去でなく、不確定な未来をあらわす。 この言葉を始めて知ったのは織田作之助が死ぬ直前(私が17歳の頃)に書いた“可能性の文学”である。そこに書かれた“銀が泣いている”という将棋に一生をかけた大阪の“王将”のことは忘れられない。作之助は若くして亡くなられたけれど、彼の芸術は完成していた。同じことが私の好きなもう一人の作家、葛西善蔵についてもいえる。可能性と完成とは人類の発明した最も嬉しい言葉であると思う。25年前アメリカ地震学会の会長演説に何を話すか悩んだ時、その題を“1980年代における可能性の地震学”と決めたら、すべて滑らかに考えが流れた。“地震学の可能性”では考えが拡散して駄目、“可能性の地震学”なら集約できたのは織田作之助のお陰である。言葉という人類最高の発明の微妙な働きを感じる。彼の作品でもうひとつ印象深いのは“蛍”という幕末の志士を庇った伏見の船宿の女主人の話で、“おいごと刺せ”といって死んだ薩摩藩士や坂本龍馬などを蛍にたとえている。大学の先生になってから、私は学生たちを“私の蛍たち”と思ってきた。この数年私もやっとこの一生を完成したと感じるようになってきたので、この可能性から完成に至った過程をこの本に書きたい。
私が初めて読んだ科学書はファーブルの昆虫記だった。中学生の時で、真夏の日照りの下の田舎道をふんころがし(甲虫のようなもの)がのろのろ歩いて行くイメージが今でも目に浮かぶ。私の中学時代は第二次世界大戦の真っ最中の横浜一中、そして終戦後水戸高校に入った。旧制の最後から2年目である。水戸高校はばんからで有名で、入校に際して先輩諸兄が竹刀片手にいろいろと質問する。お前はいったい何の為に此処へ来たかなど答えようのない質問が威丈高におそいかかる。このストームと呼ばれる野蛮なものが朝から晩まで1週間続いたのだから先輩の方も大変だったと思う。この時の質問のなかでどんな本を読んだかと怒鳴られてファーブルの昆虫記とつぶやいたら、先輩の一人から優しい微笑を頂いた。この先輩は確か杉浦さんといって、今でも覚えている寮歌を作られた。終戦時焼出されて当時水戸高校が仮寓していた友部のはずれにある航空隊の旧基地、今は精神病院となっている所、を最近訪れてこの寮歌をくちずさみ涙が出て仕方がなかった。<雲白く、風静やかに、美まし国、緑が丘に咲き誇る芸文の花摘みしりて、みとせの春をうら嘆き過せし君は行き別かれなむ>。この歌を習ってから長い年月繰り返しているうちに多少元のものからはずれているかもしれないが、これが私の脳裏に刻まれていて青春の涙を誘う。私は高校時代、講義に出るほかは外国文学に耽溺し、ヘルマン ヘッセやトーマス マンを発見していた。その頃の友部の田園風景は彼等の文学によく調和した。時の水戸高校校長は独文学で有名な関泰介でゲーテのファウストについての特別講義に参加した記憶もある。
さて、このファーブルというフランスの昆虫学者は昆虫世界の見事な調和は神以外に作れないとして、ダーウインの進化論を信じなかったが、ダーウインは彼の観察力を深く尊敬していたといわれている。ファーブルの次に私が愛読した科学書は東大に入学した頃出版されたウイーナーのサイバーネチックスである。この本にはダーウインの進化論やマルクスの資本論にあるような歴史的にものをみる深さはないが、数学モデルで自然現象を予測するところに強く惹かれた。この方向でなにか新しいものを地震学に入れたいと思い立った。地震予知ということを一生の目標ときめたのもこの頃である。
はしがきにも書いたように、その頃電車のなかで隣人に会い、大学で何を習っているのかと訊かれて地震学と答えたら、まじまじと私を見ながら、まあそういう人があってもいいですねといわれた。その頃の通勤電車(横浜の保土ヶ谷からお茶の水か御徒町まで)はぎゅうぎゅうに混み合っていて大学へ行く片道1時間ほどの時間を過すため、つり革にぶらさがりながら片手で本のページをめくることを覚えた。ウイーナーのサイバーネチックス(海賊版のうすい本)も、そのようにして読んだ。ある時電車が鶴見川の上で止まって長いこと動かなかった。そのとき不思議な経験を味わった。目の前にグーテンベルグという地震学者の率いる軍隊が現れて地震災害に立ち向かっている、ああ私はこの軍隊の一兵卒になろうと決心した。これは地震予知を一生の目標と決める前であった。グーテンベルグはその頃地震マグニチュードを発明したリヒターと一緒に世界の地震現象を定量的に評価するという人類史上画期的な仕事を完成し、彼らの研究をまとめた本が出版されたばかりの時であった。その後10年程してこの二人の仕事場であるカリフォルニア工科大学にポスドクとして行き、個人的に知りあうことになるが、その頃はただ彼等によって完成された古典的地震学をどうしたら超えて行けるかと考え、ウイーナーのサイバーネチックスにある統計物理のモデルを地震学に応用することを思い立った。その結果は50年近く経った今でも役に立っているらしい私の学位論文に集約されている。
この学位論文で私は科学というものの本質に触れることが出来たと思っている。科学の出発点は先ず対象とする現象について構想を立てることである。それは初めは漠然と雲を掴むような広々としたものでよいが、次第に具体的なもの、私の場合には物理数学の応用できる簡単なもの(それを我々はモデルという言葉で表わす)にしなければならない。私の学位論文の構想は、ウイーナーの時系列(ひとつの現象を時間の函数として表わしたもの)のモデルを時間と空間の4次元に拡張し、地球上で観測される色々の複雑な地震波動のモデルにしようというものであった。この構想の漠然とした広さがこの論文の長命を支えたと思う。
さて構想が決まったら次のステップでは対象とする現象について、決めたモデルに基ずく理論的予測をする。私は実際の地震火山の観測への応用を夢みていたが、その頃の日本の経済状態から見て大学院学生には高嶺の花であった。仕方なく地球物理教室の裏庭で常時観測される微動と呼ばれるもの(おもに交通機関が原因と解かっていた)を対象とすることにした。
まず微動のモデルを至る所で起こっている交通機関の活動から来る表面波の集合と決めた。こう決めたら一切が簡単になって、微動がウイーナー式の統計数学モデルで表わされ、その時間空間的性質がきれいに数式化され、それをテストするのに何を測ればよいか自明となった。2台の地震計を使って異なる地点の振動の間の相関を異なる周波数帯について調べればよい。
当時私は坪井忠二先生の研究室に属し、後に学士院会員になられた友田好文さんから実験装置の作り方など習っていた。隣の松沢武雄先生の研究室では後に東海地震予知判定会の会長など勤められた浅田敏さんが世界に先駆けて微小地震の研究をしておられた。そこで先ず浅田さんから地震計を借りた。次に相関を定量的に測るため特別な計算機を作った。その頃から電子関係の市場の中心だった秋葉原に行き当時のレート(1ドル360円;これでトリスという美味しいウイスキーが一本買えた)で100ドル位の投資をしてデカトロンなど必要な部品を買い集め2台の地震計の間の相関係数を自動的に計算する装置を作った。こういう資金は翻訳などのアルバイトで稼いだ。
近くを歩く人々のつくる振動を避けるため、観測は夜にしなければならなかったので、新婚早々の妻晴子にも助けてもらった。しかし直ぐ微動の等方性が見つかり、一方向だけの観測だけでよいことが解かった。その結果とんとん拍子に研究が進んで、微動がおもにラブ波という表面波であり、観測された相関係数からその伝播速度の周波数依存を求め、それから地下構造を推定することが出来た。そして締めくくりとして自分で穴を掘って推定した構造を確かめた。この学位論文に書いた方法はその後北大教授の岡田ひろしさんや埼玉県環境科学センターの松岡達郎さん等の努力で強振動予測の実用に役立つ深さまで発展してきた。私はひそかにこの方たちも“私の蛍たち”の仲間にいれている。
初めの構想から学位論文の完成まで1年程度であったが、その間に私は科学というもの真髄を会得したと思っている、それは先ず構想で出発し、それに基ずいて予測を可能にするモデルをつくり、それをテストするのに何を観測するべきかを知って実行する。そして最後に得られた結果を独立な方法で確かめる。この経験を1年程度ですませたのは選んだ研究対象が小さいものだったからと思う。対象が大きいと出発から完成まで長い時間がかかるし一人では出来ないのが普通である。この学位論文の経験は私に小さいものの貴重さを教えてくれた。そのせいか、私は今も小さい昆虫、小さい花、そして幼い子供たちを見ると楽しい気持を味あう。
私の末娘は6歳でウカという名前、宇宙の宇と火山の火をつなげたものだがこの名は羽化にも通じる。ウカは小さい花や鳥などで一杯の絵を描くことが大好きである。一方姉のカジカ(河鹿;河原で合唱する小さな蛙たち)は12歳で数学と乗馬が得意。私の科学の完成はこの10年レユニオンの火山観測所で地震観測を担当してきたこの娘たちの母ヴァレリーとの生活から生まれた。一方前妻の晴子との間に出来た正太と善太という男の子たちは私の学位論文のあとのアメリカ生活に大切であった。学位論文で芽生えた可能性がこの完成まできた50年の道筋をこの本に書きたい。
学位論文の仕事にかかる前、20台の前半に、20位の論文を書いたが、そのうち今でも私のなかに生き残っているものは3つに分類される。第一は地震発生に関するそれまでの統計的研究をまとめたもの、次は水沢の緯度観測所を訪れて20世紀初頭から溜っていた地震記録を見せていただき、そのスペクトル解析を富士通の池田敏雄さん(IBMと戦った記録が映画になった人)に作って頂いた特別な計算機でしたもの。そして最後は地震火山の現象を地球内部のエネルギーの定常な輸送過程とみなす考えの芽生えたものである。
第一の論文は後年私が南カリフォルニアの地震センターを作るについて基礎となったマスターモデルという概念の生まれた所らしい。このセンターの目標、南カリフォルニアの地震についてのあらゆる科学情報を総合して地震災害を確率的に予測する、という考えの芽は25歳の頃雑誌“地震”に書いた統計地震学の総合報告に認められるといわれた。当時日本の地震学会では毎年誰かがある分野の現状をまとめて話すという慣例になっていて、私にも統計地震学という課題が与えられた。そこで古今東西の関係文献を200余り読んだ。そのなかには地殻内部の不連続面で有名なコンラッドの200頁に及ぶ大論文もあった。彼の結論は簡単で、日本地震学の創始者大森房吉の発見した“大地震のあとに余震があり其れが時間と伴に減少する”ということ以外地震発生には規則性は認められないというものであった。
私の文献調査の結果,余震減少の法則のほか、地震発生には空間的にも時間的にも“起こると起こりやすくなる”という続発性のあることが普遍的に認められることが判ったが、この調査で最も深く印象ずけられたのは、色々な人々が実に色々な方法で地震発生という難しい問題に立ち向かって来たかということであった。彼等の努力を無にしてはいけないと思って、それまでに試みられた方法を系統的に分類し、それらを総合した将来の研究方向を提案した。同じ意図が後年南カリフォルニアの地震センターを創ったことに繫がっていると思う。
第二は地震波動のスペクトルは一体何によって決まるのかと問いかけた一連の論文で、古い煤がきの記録を基に自動的に自己相関関数を計算する装置を作り、スペクトルが地震のマグニチュード、伝播経路や観測点の特性にどう依存するかを系統的かつ速やかに調べた。この計算機は今の富士通の全盛を築いた池田敏雄さんに頼んで今や学士院会員の友田好文さんの見つけた符号だけから相関係数を推定する方法を使って、電話のリレーで組み立てたものであり、想えば画期的なことであった。
この時使った古い記録は気象庁のヴィーヘルト地震計と水沢の緯度観測所の大森式地震計から生まれたものである。最近“銀杏精子発見の検証”という本を読んで小石川の東大植物園を20年くらい前訪れて以来の疑問を解決したが、平瀬作五郎によるこの世界的大発見に先駆けて帝国学士院の恩賜賞を最初に受けたのが水沢という東北の片田舎の緯度観測所から生まれた木村栄による緯度変化の研究である。須川さんという親切な所長の助けで50年溜った記録を集め、東京に持ち帰り解析した。その結果解かったことが私の一生の科学生活に深い影響をのこした。簡単にいうと、地震波のスペクトルはP波やS波など震源から直接やってくる部分では伝播経路に大きく依存するが、後に現れるコーダと呼ばれる地震動の尾部では伝播経路の影響が消えて主に地震のマグニチュードだけで決まる。その時は意識しなかったが、これが私のコーダ波研究の出発点であった。その頃私は宮沢賢治の詩集“春と修羅”を愛読していたので、彼の歌った風景のまっただなかにある水沢での仕事は楽しく、今想っても懐かしい。
学位論文以前の仕事で生き残っている最後のものは地震の発生と火山の噴火をエネルギーと物質の地球内部からの輸送過程と考えて物理と化学の法則を適用する試みである。火山については東大地質教室の久野久先生と地震研究所の水上武先生の主催した浅間山の峰の茶屋でのサマースクールに参加したりして地震と同じ位の関心を若い頃から持っていた。当時新しく雑誌“火山”第2輯が発行されることになり新人からの投稿が勧誘されていて、マグマだまりの球形モデルで有名な茂木清夫さんの論文が出た同じ号に私も“定常非可逆過程としてのマグマの局地的集中現象”という題の論文を書いた。これは火山現象をエネルギーと物質の輸送過程と見て、ドグルートという物理学者の書いた非可逆過程の熱力学の教科書で見つけた法則を適用したものである。その前に、松沢武雄先生の引退論文“地震の場の論”から出発して地震発生を熱エネルギーの定常的輸送過程と考えた論文も書いた。地震と火山を一緒にして考える習慣はこの頃から身についたらしい。
地震火山現象の源が人間社会の時間尺度で定常であるという仮定はその後プレート運動の定常性やマントルでのマグマ生産の定常性で支持されている。ここに私は地震発生と火山噴火の決定論的予知の基本的な可能性を感じる。マグマが地表にあらわれるまで色々な通路を通り色々な溜まり場で休むので、噴火現象は一見出鱈目になりやすい。火山の場合輸送されるのはマグマという物質であるが、地震の場合輸送されるのは地震モーメントというものである。この地震モーメントという概念は学位論文のあとカリフォルニア工科大学に行き“長周期地震学”に触れたあと数年たって生まれたもので、この誕生についてはいずれゆっくり説明するつもりだが、地震の大きさを正確に表わし、簡単で、観測地震学の他、地質、測地、災害調査、古記録、地震工学などあらゆる分野の地震研究者に通じるものである。
###########(08-02-05に以上の分を久田さんに送る。しかしその後多少修正した)
学位論文のあと気象庁に就職したいと想っていたら、東大地震研究所の宮村摂三教授の斡旋で彼の研究室に入ることが出来た。当時宮村研究室には堀実、辻浦賢、松本英照など有能な人材が揃っていて、彼等の助けで、常時微動を使って学位論文で開発した方法を本物の地震に応用する道が開けた。因みに宮村先生の名前“摂三”は日本海軍の中心であった摂津と三笠という2つの戦艦の艦長を務めた彼の父のなずけたものであるという。彼は後年地震研究所の機能を数年停止させた事件の責任者として非難されたが、無線による地震観測を世界に先駆けて開発したり、新時代の地震学に大きな貢献をなされたと思う。
宮村研究室での最初の試みは鎌倉の海岸近くの小学校の庭での3点観測だった。そこで経験した地震波の複雑さに困惑して、次の観測を一様な花崗岩で創られている筑波山で行った。そこは東大地震研究所の萩原尊礼先生の永年つちかった観測場であるが、この地震波の複雑さがここでも見れることがすぐ判った。同じことをフルブライト資金でカリフォルニア工科大学に行き、天文台で有名なパロマ山での観測から見つけた。日本のような小さい島とアメリカ大陸でこの複雑さが同じであることを見つけたことは意外だったが、地殻は何処でも複雑だと解かってなんとなく安心した。宮沢賢治についで愛読した石川啄木が蟹とたわむれた東海の小島の磯と、プロペラ飛行機で太平洋を渡って初めて見たカリフォルニアの広大さを比べると感慨無量であった。28歳のときである。
その頃の日本は大変貧しくて、一般家庭には自動車は勿論、テレビ、冷蔵庫、電気掃除機すらないのが普通であったので、アメリカに行ってそれらを全部使い始めたのは全く新しい生活であった。カリフォルニア工科大学のあるパサデナという所はその当時、全く豊かで清潔な美しい土地であった。1月75ドルのアパートも緑の芝生や棕櫚や色々の木に囲まれていて、夢のように楽しい所であった。アパートの持主の独身の老女に親切にされ、夕食にやわらかい牛タンをご馳走になって、こんなに美味しいものがこの世にあったのかと感動した。
天文台のあるパロマ山とパサデナの間を磁気記録テープの取替えに毎週往復した。一日がかりの仕事で、私はこれを“パロマへの道”と呼んだ。ある霧の深い日にパロマ山麓で突然真っ白い馬に出会ったこともある。半世紀近いあいだにこのパロマへの道も随分変わってしまったが、ときどき訪れて僅かな昔の名残りに触れる情緒は格別である。これまでに私の愛読した日本の作家として宮沢賢治、石川啄木、織田作之助、葛西善蔵と書いたが、井伏鱒二の小説から見つけた“情緒とはお酒のことですか”という言葉も忘れられない。彼の“厄除け詩集”にはいつも慰められた。この時パロマ山で発見したことを不思議なことに論文として残さなかったのは次の年の発展が余りに目覚しかったからと思う。
カリフォルニアの最初の1年はディックスという物理探査関係の教授のポスドクとして過した。これは坪井忠二先生の斡旋してくださった仕事でフルブライト資金から旅費を頂いた。これは多分その数年まえ私のみつけた重力のデータから地下の密度分布をきめる方法が先生のアメリカ旅行の際、石油会社の研究所などでの講演に役に立ったためではないかと想像する。この方法は地表の格子点で数値化された重力に簡単な演算を施して地下の密度分布に変えるもので、坪井研究室の週1回の集まりから生まれた。
その頃の坪井研究室には、のちに雑誌ニュートンを発行された竹内均、名古屋大の教授として幅広い活動をされた島津康男などおられ、活気に満ちていた。ある集まりで友田さんが重力の話をなされた時、その朝電車のなかでいつもの片手読みをした岩波講座に高橋秀俊という物理学者の書いた電気回路についての基礎理論を思い出し、その場で提起された問題に簡単な答えを出した。この時友田さんに“あと2年位何もしないで遊んでいてよろしい”と云はれたのは嬉しかった。これこそ科学者の醍醐味ではないかと感じた。
パサデナ滞在最初の1年の間に当時世界の地震学のセンターであった俗称サイスモラブを訪れてグーテンベルグ、リヒター、ベニオフらの大家たちとコロムビア大学から移って所長になったばかりの新進気鋭のプレスと知り合った。サイスモラブは大学から離れた郊外の素晴らしい富豪の元邸宅にあって、オレンジの林やテニスコートのある庭にエレべーターで降りるという優雅な所であった。私がパロマ山に計器を設置した観測点はサイスモラブに属していたので、そこで働く人々に色々と世話になった。特にフランシス レーナーという主任技術者から受けた親切は忘れられない。
その頃プレスはレーリー波の位相速度から地下構造を決める方法をサイスモラブの南カリフォルニアの観測網を使って開発し、ユーイングと一緒にそれを使って全米の地殻構造を決めたばかりだった。ある日プレスにサイスモラブの記録室を案内してもらい、彼の方法のもととなった長周期レーリー波の記録をみて、その見事な単純さと私の経験してきた短周期地震波の複雑さとの違いに驚いた。この時の会話は私の科学者としての一生で最も決定的であった。私はどうしてこんなに簡単な記録を永年知りながらグーテンベルグ、リヒター、ベニオフらの大先生が位相速度を使う方法に気がつかなかったのかと訊いた。プレスは即座に“彼等は理論を信じなかった”と答えた。
リヒターは当時“初歩の地震学”という謙遜した題だが、今でも貴重な観測事実で一杯の本を書いたばかりであった。彼の仕事部屋のドアに“貴方は理論を持っている、私には仮説がある、しかし彼等は推測しているだけだ。”と書いた紙切れを見つけ、プレスの言葉とつきあわせて、科学というものの深さと広さを感じた。
プレスのお陰でパサデナ滞在は1年延長され、サイスモラブに1部屋頂いて長周期表面波を使って震源のメカニズムを決めるという仕事をした。丁度その頃核兵器を地下でテストすることが始まっていて、その検出に地震学の大事なことが認識され、世界中に最新の地震計を設置する観測網が作られた。この観測網は私の研究にとって最も大切なものであった、例えば、後述するように、それがとらえた1964年の新潟地震から地震モーメントという概念が生まれた。
この2年目の滞在中に長周期表面波を使って地震の震源のメカニズムを調べる仕事を始め、直ちに“シングルカプルかダブルカプルか”という当時の地震学の中心的論争に参加することになった。地震は断層によって起こると考えてきた西欧の学者は震源を一つの偶力、即ちシングルカプルで表わせると思っていた。一方東北大学の本多弘吉先生らはシングルカプルではS波の観測を説明できない、同じ大きさで逆方向をもつ2つの偶力を重ねたダブルカプルならよいと主張された。私のラブ波を使った結果も後者を支持した。その頃カナダの国際会議で本多先生にお会いして、“やっと本当の地震学を始めましたね”といはれたのは嬉しかったが、同時にそれまでの統計モデルに基ずく私の仕事が地震学の主流から外れていたことを悟った。
今振り返ってみると、この主流に入ったり、それから出たりすることが私の一生の研究生活に一貫していて、それが新しいものを取り入れて且つそれを広めるという原動力になっていたと思う。主流に入れなければ駄目、しかしそこに留まっていても駄目ということである。パサデナ2年目の滞在中プレスとの会話で長周期表面波の美しさを称えながら地震予知には短周期地震学が大事と思うと話したことを覚えている。この主流との出入りの自由さは、ひとつには地震学の世界がこの本のはしがきに述べたパパゴの世界のように貧しい小さいものであったからだと思う。貧しく小さいことが限られた能力を持つ個人にとって貴重であることは私の最も敬愛する哲学者スピノザのエチカから習ったと思っている。1960年生まれたばかりの長男正太を連れて日本に帰ってからも以前の局地地震の短周期地震波の統計的研究と新しく習った長周期表面波の決定論的研究と平行して進めた。
ともあれ、この“シングルカプルかダブルカプルか”という論争は丸山卓男さんやバリッジとノポフの理論的研究で解決し断層運動はダブルカプルと等価であり、地震は断層運動によるということになった。この結果が後の地震学の発展に与えた影響は計り知れない。震源がダブルカプルとなると最も基本となる物理量はそれを構成する偶力の大きさ即ちモーメントであり、地震モーメントと呼ばれる。モーメントは力と距離の積であらわされるから、その単位はエネルギーと同じ、昔はダインセンチメーター、今はニュートンメーターで量られる。これは断層の面積と断層面上で平均した変位量の積に比例し、その比例系数は剛性率という地殻の弾性常数の一つである。これを初めて決めることが出来たのは1964年の新潟地震で、核爆発探知のために作られた観測網の光学記録を集めて、地震研究所の助教授として頂いたセクレタリーの平沢たとこさんに肉眼で定量化してもらい、その頃判っていた地殻構造と表面波発生理論をもとにモーメントを計算した。その結果は震源近傍での地殻変動や余震の観測から推定された断層面積と変位量と調和して、地震が断層運動によるということを定量的に支持した。以来40年多数の地震について同様の結果が得られ、地震が断層運動によるということは確かなものと認められ、今や地震学の工学的応用の基礎となっている。
私の研究生活で最も大事なこの新潟地震は私がその一寸前に起こったアラスカの大地震の余震観測に日米科学協力の資金で行っている留守中に起こった。この観測は計器を総て空輸してキナイ半島に4点の垂直動地震計と1点の3成分地震計を設置して同時記録をするという当時としては贅沢なもので、数キロメートルのケーブルを運んでムースや熊を怖がりながら設置した。宮村研究室の堀さんと松本さんと3人自炊して2月位観測と同時に解析しその結果を記録紙の巻紙にペン書きしてプレスに報告した。この大地震で深い余震が誘起されているというというのが主な結果であったが、所得格差が桁違いであった二つの国の科学協力がよくできたと不思議に思う。その後も1980年代の初めアラスカ大学の訪問教授としてフェアバンクスを毎夏訪れ、また1990年代にはアンカレッジの地震災害対策にカリフォルニアで開発した方式を応用したりしてアラスカは一層懐かしい所となった、
地震モーメントという概念の誕生は当時の長周期地震学の観測と理論の発展から当然期待されたものであり、それを思いついたとき、これは大事だから論文に書かねばならぬと思ったけれど、私自身特別な興奮は感じなかった。それよりもずっと興奮したのは1960年アメリカから帰ってユーイングとプレスが全米の地殻構造をきめるのにつかったサモアの地震のレーリー波を気象庁のヴィーヘルト地震計が見事に記録しているのを見つけ、日本全体に分布した50台(気象庁の前身である中央気象台の台長を20年勤めた岡田竹松によってつくられ、和達清夫先生が1920年代の初期に深発地震の存在を確証した研究の基礎となったものである)の記録を頂いて、解析した結果日本の地殻と上部マントルのS波速度がアメリカより5%低いことを知った時である。これはマントル低速層と呼ばれる地震や火山活動の本源が日本の下では地殻に密着しているということだと理解した。今でもその考えは変わっていない。これを見つけた時不思議に身体のなかに暖かいものがこみあげてきた。この研究は後に東大極地研究所の教授となられた神沼克伊さんの協力で、今や世界的に認められているラブ波とレーリー波の位相速度の食い違いに基ずく地殻の異方性の発見を導いた。
アラスカから帰って新潟地震の世界観測網の記録を集め始めたが、この地震で地震予知について世間の関心が高まっていて、岩波書店から雑誌“科学”のフォーラムに何か書くように頼まれた。日本ではその2年前、和達清夫、坪井忠二と萩原尊礼の3人が中心となって“地震予知―現状とその推進計画“という後年地震予知のブループリントとして世界的に有名になるものが公表されていたが、私はこのフォーラムで地震予知の難しいことを、病気を診断する医学と較べながら、強調しその困難な理由を3つあげた。
第一に地震の起る地下深所の構造や状態が十分にくわしく解かっていない。われわれが地球内部について知りうる手段はすべて地表での観測からくるものであり微細構造についてはなかなかはっきりしたことがつかめない。この微細構造を知らないで地震を予知するということは医学にたとえると内臓の働きも血管や神経の所在もはっきり解かっていないのに、人体の外部所見だけから病因を探るようなものである。こういう状態では、地震の原因についての仮説をたて、それに基ずく理論を観測によって実証しようとしても、いろいろと不健全な空想的要素が入りこんできてしまう。
第二に大地震というものは極めて稀なものである。もし大地震がある地方で毎年一回という頻度で起っていれば、たとえその原因について十分な理解が得られなくとも、繰り返し起る現象のなかから何らかの規則性が見出されやすい。ある種の火山についてその噴火の予知がある程度できるようになったのは、一つにはその噴火がひんぱんに起るためである。繰り返し起る現象のなかに規則性をもとめる科学者にとって、一生の間一度起るか起らぬかという現象を待っているのはまことに無理な話である。
第三に地震予知のための観測というものが、多額の予算と大勢の労力を要することである。地殻変動にせよ微小地震にせよその観測は、たとえ小さな地域を選んだとしても大学の一研究室程度の規模では十分なことは出来ないし、まして若い科学者がかりに何か考えをもっているとしても、それを検証するための観測を独立でやれるというものではない。この種の観測には大きな組織が必要になるのだが、組織による観測はどうしても業務的になり、研究というものに不可欠な柔軟性に欠けてくる。
この40年前に書いた論文は現在日本の地震情報の集約と公共への伝達で指導的役割を果たしておられる津村建四朗さんに思い出させて頂いたが、振り返ってみると私のその後の40年はこの3つの問題を解決することであった。この論文の後直ぐに地震が断層運動によることが定量的に示され、地震工学に直接役立つ“定量地震学”が出発し、続いて革命的なプレートテクトニクスの理論が地震の原因を説明することになるが、どちらも上記の3つの問題には満足に答えてくれなかった。ただ思い出すのは1976年頃イギリスのダーレムという所であった国際会議で当時日本の地震予知研究を推進されていた東大教授の浅田敏さんに地震予知にはプレート理論より断層モデルの方が役に立つといわれたのを覚えている。
ともかく上記の3つの問題を解決しなくては公共のために役立つ信頼できる地震予知は出来ないと思い、まず第一の問題に専心した。その結果がこの本の第二章に述べる私のボストン時代に生まれた地震トモグラフィーとコーダ波の研究であり、第二の問題とは第四章に述べるレユニオン島移住で当面し、火山の噴火予知から予知科学の基本を習った、第三の問題とは第三章に述べるロサンジェルス時代に挑戦し、マスターモデルという考えを試した。そしてこれらの経験の全体を総合して、地震予知を確かな科学的基礎のうえに置くことができるというのがこの本の結論となる第五章である。
私は1962年に生まれた地震予知のブループリントを創る会にも出席し、同席された微小地震研究の元祖である浅田敏さんが黙っているので堪らずに研究項目として主題となっていた地殻変動の他に微小地震を入れることを提案した。地下の微細構造やそこで起っている微妙な現象を知るには微小地震のデータが必須であること、微小地震の周波数帯域は広くその数も多いので情報源として大事であることなどの理由をあげたと思う。この提案に地震研究所の河角広先生が大小地震のエネルギーバランスという全く別の立場から賛成してくださってブループリントに入れられることになったと覚えている。測地学の方法による地殻変動のデータは浅いところの現象に圧倒され、深いところのことは隠されやすいが、地震波は深い所を探れる可能性をもっていると確信していた。その確信は今も変わらない。その頃知ったシャノンの情報理論で習ったこと、情報量が周波数帯域の幅とシグナルの長さに比例するということも助けてくれた。
ウイーナーのサイバーネチックス、シャノンの情報理論より直接役に立ったのは、気象研究所の小河原正巳の訳したウィルクスの数理統計学であった。小河原先生とは直接お会いして色々教えて頂いた。私の論文で最も長命なものの一つに最尤度法によるb値とよばれる地震頻度のマグニチュウド依存を表わすパラメターを評価する方法があるが、その基本はウィルクスの本から習ったと思う。お陰で後年マサチュウセッツ工科大学(MIT)で確率論的地震災害の評価法を開発したコーネルや、地震探査のデジタル化で重要な役割を果たしたロビンソンと親しむことが出来た。ウイーナーの理論を自然地震の予知に応用しようとした私と、同じ頃資源開発のための人工地震記録の解釈に使ったロビンソンとの会話はたのしかった。第三章で述べるようにMIT から南カリフォルニア大学(USC) に移った頃アメリカ科学アカデミーから地震災害の確率論的評価法を評価する会の委員長の役を課せられたのも統計学の理解のお陰である。その結果が南カリフォルニア地震センター(SCEC)の指導原理となるマスターモデルという概念にも通じている。
このように30台まで将来の発展の種を少しずつ自分でまき始めたが、それが育った土壌は私を生んだ家族と東大地震研究所という世界に稀な所である。
私は昭和5年3月3日桃の節句に生まれた。西暦に従い数字で書くと03-03-30である。生まれた所は横浜の保土ヶ谷の桜ヶ丘に祖父杏一が建てた家である。祖父は日本の港湾工学の先駆者の一人で、大正12年の関東大震災のあとの横浜港の復興を最後に公職から引退し、自分の造った新しい港の見える丘に老後のための家を建てた。“春風秋雨50年”という上下2巻の自伝によると、大地震当時彼が所長をしていた横浜港の庁舎は幸い被害を免れ家族を含めて300人の職員を収容し連日連夜の働きで一月後には一つの桟橋に船が着き、一年経たぬうちに復興作業が完成した。
この祖父の家は世界大戦中50発の焼夷弾を受けて焼けてしまったが、焼け跡に父皓一の建てた家で私は祖父と祖母と隣り合わせの部屋で大学時代をすごした。祖父は貝原一軒の養生訓を愛唱していた。 そのなかで特に記憶に残っているのは“心は常に楽しむべし、苦しむべからず”という一節である。私はキリストの受難と苦痛を心に刻む西欧思想と比べながらこの言葉を今まで繰り返してきた。ルーブルなどの美術舘でみる西欧の彫像の深刻な顔つきと布袋様の笑い顔の違いであると思う。
西欧の美術舘で見られる微笑はモナリザは別として聖母マリアだけではないかと思う。聖母マリアに初めて会ったのは少年のころ父の書斎で見た受胎告知という画集である。世の中にこんなに美しいひとがいるのかと感動した。その感動はいまも続いている。最近白洲正子という方の“十一面観音巡礼”という本を読み同じ様な感動にめぐりあった。この50年世界中をめぐり歩いてマリアと観音には至る所でお会いした。この二人はそれぞれ西洋と東洋とに優しい慈悲を最も多くの人々に与えてきた点から見て同体ではないかと思う。
父の書斎で当時発見したもう一つ大事なものは坪内逍遥の訳したシェイクスピア全集である。その後福田恒存の訳や原書にも親しんだが、シェイクスピアの創った世界の広さと深さと複雑さにはいつどれを読んでも感心させられる。しかし一番繰り返して読んだのはマクベスである。魔女という超自然との接触が魅力だったと思う。超自然との接触というとゲーテのファウストに現れるメフィストを思い出すが、ファウストも私が繰り返し読んできた本の一つである。マリアと観音も超自然であるが、魔女やメフィストと比べると、善と悪との対比を思わせる。しかし老子がいうように善と悪とはお互いに必要なものであり、この世に人間として生きていることの面白さと豊かさに通じる。
祖父について特記したいのは男の子に平等に一で終わる名前をつけたことで、私の4人の叔父もまたその子等、私の従兄弟たちは男は全部一で終わる名前をもっている。弟周一も例外でない。祖母耕野は会津若松から御茶ノ水大学の前身である女子師範に独りでやってきた新時代の先端を行った人であり、これに賛成したのだと思う。
祖父は徳島の出身で京都で苦学、第三高等学校と京大を卒業した。その頃貧乏にも係わらず自分の誕生日には必ずすき焼きを食べたらしい。。それから半世紀経った終戦後でも私の母は叔父叔母従兄弟を含めて30人位呼んで彼の誕生日2月4日にすき焼きをご馳走したのを覚えている。お酒の好きな叔父たちを含めたこの年中行事は母にとって大変だったと思う。
安芸という名前は東京の電話帳にもあまり無い珍しいものであるが、四国の高知の安芸市では普通であることを15年前に京都大学に招かれた時余暇に訪れてみつけた。その時安芸神社を発見し、そこに祭られている安芸国虎の悲劇、近隣の豪族に襲われて敗れ、一族の命ごいに切腹したことが神社の縁起として書かれているのを知った。国虎がその子をひそかに徳島に遁れさせたという一行を読んで、その子と祖父との関係を思い、感慨にふけったが、最近この関係が証明されたと弟周一から聞いた。
この神社の縁起によると、西暦672年の壬甲の乱に敗れた左大臣蘇我赤兄が土佐に流され、その子孫が安芸氏をなのり、国虎の腹切は1569年8月7日とあった。蘇我赤兄は娘2人を皇后にしたということをあとで知って天皇家との関係にくすぐったい思いをした。安芸神社を見つけた旅に出る朝、滞在していた宇治のおおばくのふみきりの側で延命地蔵菩薩に出会い、弘法大師が2-3才の頃この山に登り、天、地、知と3つの文字を発せられたということを読んだが、安芸市を経て、彼が空海と自分を呼んだ室戸岬を訪れ二度目の出会いをした。同じ頃彼の創った広大な高野山の聖地を訪れ樹齢600年という杉林のなかに出井清太郎という方のお墓を見つけた。この人は昭和2年に天啓により、将来陸海軍が政治をとって大戦になると政府に謹告し治安維持法で投獄された。お墓には昭和11年3月16日市ヶ谷刑務所で母の死を知った時“今日の日は思いもよらぬ母の死をきいて、涙のかれるまで泣く”と書いてあった。
この墓碑銘が私に強い印象を与えた理由の1つは将来を予知するということにまつわる危険ではないかと思う。同じような強い印象をローマのヴァチカンでラオコーンの像を見た時受けた。彼はトロイの戦争で現れた木馬の危険を予告して女神アテネを怒らせ、息子ともども大蛇にからまれて死ぬ。その断末魔の悲痛な表情は地震予知ということを一生の目標としてきた私にとって他人事ではなかった。私がマスコミを避けてきたのはこの予知にまつわる危険のためかと思う。人類のための地震予知研究で一生が不幸になってはたまらない。
――以下、第1章の後半と第2章は、旧サイトの15〜23ページ(画像)から書き起こした。私の蒔く種を育ててくれた土壌として家族の次に東京大学の地震研究所の与えてくれた恩恵は大切である。造船工学の権威であった末広恭二が当時の日本の最高の知識人で物理学者の寺田寅彦と協力して創ったこの研究所は工学と物理学と地学を結ぶ所となった。私が勤め始めた頃は、金井清先生が常時微動や日立鉱山の深い地下での観測をもとに強震動の基礎的研究をされていた。この研究所のもう一つ独自であったことは地震だけでなく火山を研究することで水上武先生が浅間山の噴火予知に取り組んでおられた。このお陰でMITに移って数年後始ったNSFの工学部門の強震動予測とエネルギー省の地熱開発のプログラムにすぐさま参加して多くの学生を育て、且つ海外から有能な学者を招いたり、自分で滞在費を工面して来られる方を誘致することになる。この二つのプログラムは両方共20年位続いて私のアメリカでの研究生活の財源となったばかりでなく、世界各地からの多数の有能な訪問者がお互いに交流しあう素晴らしい雰囲気をつくってくれた。こういうことは日本から脱出しなければ出来なかったと思う。私は建国200年を祝った1976年に古い歴史をもつボストンのノース チャーチでの儀式でアメリカ市民となったが、この国の自由で広々とした開放性は当時の日本にはなく、ワシントン、ジェファソン、リンカーンらの政治思想の恩恵と感じていた。
第2章 最初の脱出
ある環境から脱出することは蛇が脱皮するように人間の成長にとって大事だと思う。東大助教授という恵まれた環境を離れて1966年の夏前妻晴子と6歳の長男正太と一緒にボストンに移った。この旅の途中サンフランシスコに着いたとき、総ての航空会社がストライキ、レンタカーも売り切れといはれカリフォルニアにしばらく留まることになり、お陰で起ったばかりのパークフィーrルド〔ママ〕地震断層を直接観察できた。この地震は強震動予測とコーダ波理論の出発点となったので、新潟地震の次に私にとって大事である。
脱出ということは、しかし家族の犠牲を伴う。この最初の脱出でも最近母からこの決心を聞かされたあと三晩続けて泣いたとうちあけられたが、当時は父の全盛時代で一家の写真がサンデー毎日に出たくらいで、両親のことは心配しなかった。第3章で述べるボストンからロサンジェルスへの脱出では二人の息子を東海岸に置き去りにしたが既に独り立ちしていたので心配しなかった。第4章のロサンジェルスからレユニオンへの脱出では前妻の晴子と離婚せざるを得なかったが、私の全盛期だったので経済的に可能であった。この本の最終章に書くように、この三つの脱出は私の研究人生の完成に必須のものであり、これが出来たということはミラクルとしか思えない。
この最初の脱出をした1966年頃は日米の所得格差が大きく、月給が十倍になったことも魅力であった。この決心を当時の地震研究所の所長であった萩原先生にうちあけたら、地震予知計画を推進しようとしている力武常次さんががっかりするだろうといはれた。浅田敏さんは“まあ5年もてばいいな”といはれたが、5年位で帰って来いということだったと思う。偶然地震研究所を訪れられた和達清夫先生は大きな笑顔で“前途洋々たるものですな”といってくださった。プレスから、その頃国際会議で会った久野久先生がハートブレーキングなことといはれたときいた。脱出ということは簡単なことではなく、その複雑な影響は後年の脱出になるほど大きかった。
ボストンにたどりついて郊外のニュウトンという所に住むことになった。最初の年は借家だった。向かいの家にカール セーゲンの前妻がいてその子と正太の関係で知り合った。次の年に樫の大木が5本裏庭にある家を買ってそこに18年住むことになる。ユダヤ系の人の多いせいか、子供のための学校が良い所であった。正太は高校時代フットボールの選手として活躍し、次男の善太は絵の才能を認められ、高校のレストランに大きな怪物の壁画を描いたりして芸術家として生活をたてることになる。
MITでの私の最初の仕事はアドヴァンスト サイスモロジーという題の講義で毎日朝の2時頃まで起きて準備した。最初の日には部屋一杯の学生がいたが三ヶ月後には5人だけになった。次の年には正式にレジスターしたのはケン ラーナー、一人だけだった。しかしその時の講義ノートをアルマンド システルナスに1970年の夏チリに招かれて、南米各地から集まった学生達にガリ版ずりで配った。その夏アルジェンチンの美味しいビフテキの土地、サン ホアンに招かれて地震工学者に断層モデルによる強震動予測の話しをした。話し始めた時は部屋一杯の人がいたが話し終わって気がついたら二人しか残っていなかった。この二つの経験以来私は聴衆の数や他人がどう思うかということを気にしなくなった。私は人類のため役に立つ新しい真理を発見したと確信していた。
ボストンで出会った人たちのなかで忘れられないのはノーマン ハスケルとフランシス バーチである。この二人とも生前にその研究人生を讃えるシムポジュームに自身で参加された稀な方である。ハスケルとの出会いは1959年のアリゾナでの地震学会に始る。これは私の初めての英語で話す機会であった。昼飯のテーブルで向かいに座った威厳のあるひとの名札にノーマン ハスケルと見たあとは何も食べられなくなった。彼の地球内部の粘性係数の研究とフランシス バーチの有限歪の理論による下部マントルの研究は私の学生時代に強い印象を与えていた。
二度目の出会いは7年後の1966年プレスに連れられてボストンの彼のオフィスを訪れたときである。会った途端に口数の少ない方から“126気圧”という言葉を微笑と共に頂いた。地震モーメントから新潟地震の断層面上の応力降下を推定した方法を承認されたと知って、嬉しかった。前に述べた“シングルカプルかダブルカプルか”という論争は1963年の丸山卓男さん、1964年のバリッジとノポフの理論的研究で解決したが、その時点ではハスケルはこの問題について懐疑的であったが、彼の論文は私の新潟地震の論文に引用したように、地震モーメントと断層モデルのパラメターの関係式を出すのに役に立った。
3度目の出会いは私のMITのオフィスでパークフィーrルド〔ママ〕地震の時断層の近くでとれた強振動の記録を丸山理論で説明した私の論文のプリプリントを読んで同じ結論を違った方法でだしたがその結果を発表するべきかどうかという質問であった。勿論私はするべしと答えたが、彼の一番の問題は計算機のプログラムを自分で書けないことで、彼のプログラマーを信頼出来ないことであった。ともあれ彼の方法は金森博雄さんに受け継がれ、プログラムの間違いも訂正される。この計算機との対応が歳とともに難しくなることは今の私の痛切な問題である。
最後の出会いはMITの同僚のナフィ トクソスの組織したハスケル シムポジュウムである。その時の夕食会で多くの人が彼の表面波分散の仕事を讃えたが、震源理論の仕事には余りふれなかった。最後のスピーチでその不満をかすかにもらしておられた。この後1年位で癌で亡くなられた。
フランシス バーチのシムポジュウムはハスケルのより一桁大きく世界中から色々の分野の研究者がハーヴァート大学に集まった。彼との最初の出会いはハーヴァートでのセミナーである。何の会話も無かったが、偶然彼の後ろに座って禿頭を眺めながら、ここから有限歪の理論による下部マントル密度分布の理解が得られたのかと感嘆しながら、そのモデルの物性が空間的に一様であることを思い出した。地球物理は応用物理の一分野であり、物理数学の方法を使うには簡単なモデルが要るということを悟った。
この悟りで地震学の発展の歴史を見直したのが岩波書店の地球科学講座第8巻“地震の物理”の1章“地震学序説”である。この題は編者の金森さんから頂いたがデカルトの方法序説に通ずると思って心をこめて書いた。19世紀の中頃地震の震源を点と考えたロバート マレーから出発して断層モデルまで地震現象を理解するのに物理法則を応用できる簡単なモデルの大事であったことを力説した。これは講座の編集者の一人、地質学の都城先生に褒めて頂いた。
第二の出会いはMITで、私が学生を育てるための資金を獲得するのに研究目的が限られてしまい科学の発展に必要な思考の自由が失はれると不平をいったら、直ちにMITのような所ではそういう条件のもとでも自由な研究が可能でしょうといはれた。その通りであった。最後の出会いは彼が80歳に近い頃、地震波減衰の論文のプリプリントを送ったら、明らかな間違い(2分の1にするべきところを2倍にした)を指摘されて恐縮した。
1967年の夏メンロパークのUSGSで働いたとき、ジェリー イートンの設置した画期的に密度の高く、且つ高感度と低感度の二段構えの余震観測網で得られたパークフィルド地震の余震の記録をみて、尾部のコーダ波のスペクトルが同じ地震の違う観測点の記録で同じであり、違う地震の同じ観測点の記録でも同じであることを見つけた。これは前に述べた水沢の記録からコーダ波について見つけたことを確かめるもので、コーダ波がリソスフェアに広く深く分布した小規模な不均質からの散乱波であるという考えの出発点となった。このことを イートンに言ったらハスケルから頂いたのと同じような微笑で、私が何故このような誰も関心を持たない問題にかかずらうのかと不思議がられた。この結果は“これは出版しても良いが誰も読まないだろう”というレフリーのコメントの後、1969年にJGRに出たが、これは私の論文で最も長命を保ったものの一つとなった。
この論文を書いた頃はジェリー ウェアとクリント フレージャーとの反射波の逆問題、ラウール マダリアーガとホルヘ メンディグーレンとの地球自由振動の研究、トム ドファジオとポール リーゼンバーグとの人工震源による地震波速度の精密な連続観測、イーベン ツァイとの表面波を使った地震や地下核爆発の震源プロセスの研究、ケン ラーナーとの地殻内部の不連続面の不整合が地震波に与える影響など決定論的立場からの仕事が主題で、このコーダ波の論文は私の局地地震に関する確率論的研究からの引退論文と思っていた。
ところが、丁度その頃ソ連の核爆発探知のためモンタナに設置されたLASAという大規模な地震観測網のデジタル記録を調べる仕事を始めて、1000キロ位の震源距離からくる地震波は個々のはっきりした波形でなく雲のように伝わっていることを見つけ、チェルノフの本で読んだランダムな媒質を伝わる波についての確率論的アプローチが応用できるかと思った。この本は難しくて独りで読むのは大変だったので、学生達と一緒にセミナーとして読んだ。この論文の読み方はブレコフスキーの層構造を伝わる波についての本から始め、チェルノフの次にはエシェルビー、コストロフなどの難しい論文を理解するのに使ったが、私の引退を祝って2000年の三月USCで開かれたシムポジウムで これらのセミナーが学生達自身の研究生活の出発点となったと聞いて嬉しかった。
ともあれチェルノフ理論を応用してモンタナの地下100キロ位の深さまで10キロ位のスケールで不均質であることを見つけた。この確率論的アプローチでは不均質の存在は確かめられても、その空間分布は決められない。しかしこの不均質の存在についての確信が1974年の夏ノールウェーのモンタナと似た地震観測網のセンターでP波の到達時刻が観測点と震源の両方によるというデータをリソスフェアの3次元構造をきめることに使うという地震トモグラフィーの起源となった。この確率論的方法で存在を確かめ決定論的方法でその詳細を調べるというアプローチはその後もいろいろな問題に活用した。
1970年夏のチリ訪問で人前で話すことの楽しさと葡萄酒の味を始めて知った。お陰でMITの講義のため失った体重をとりもしただけでなく、めっきり肥ってしまった。肥るということは神秘な内臓の働きであり、良いことであると思う。このチリ訪問はアルマンド システルナスのチリ大学を南米地震学のセンターにしようとした意図のお陰であるが、40歳でMIT教授として一応の役目を果したと思っていたときで、私にとってよいタイミングであった。前に述べたように、この時南米各地から集まった学生達のためにガリ版ずりで講義ノートを書いたのがリチャードと共著の定量地震学の出発点となった。残念なことにシステルナスはマルキシズムの講義をする位左翼であったため1972年アエンデ政府の崩壊の後チリを逃れざるを得ないことになり南米地震学のセンターは消滅したが、貴方の論文にマルキシズムの弁証法を感ずるといはれたのは忘れられない。
このチリ訪問中コンセプションで開かれた物理学会に招かれ“地殻内部のストレスをどうやって測るか”というテーマの講演をしたが、その前夜ホテルの屋根に猫がいて、“コンセプションの雨の音、おや猫の泣き声”と日記に書いた言葉も忘れられない。この講演のテーマはMITの初期に私の最も関心を持っていたものである。前に触れた人工震源による地震波速度の精密な連続観測、ラブ波を使った地下核爆発の震源プロセスとこの二つの方法を統合して1969年の夏トム ドファジオとポール リーゼンバーグとエーモス ヌアーと4人でサンハシント断層ストレス測定を試みた。これはかなり大掛かりな実験で、実験地が深い谷底であるため、爆破のためのボアホールを掘る仕事にキャタピラというタンクのようなものの保護が要り、トムの作ったクリスタル時計で制御される水圧を動力とする発振器のため水の供給に大きなプラスチックのプールを買い、それをみたすため4輪駆動の給水車をロサンジェルスまでいって見つけねばならなかった、この実験についてはBSSAに詳しく書いたが、地殻ストレス測定という目的では完全な失敗であった。MITのようなところでも一つの研究グループで出来ることは限られており、スケールの大きい自然現象を人工的実験で掴むことはできないと思った。以来私はコーダ波のような自然の与える現象を受動的に調べるパッシブなアプローチをとることに決めた。コンセプションの物理学会ではこの失敗した実験には触れず、大規模な核爆発からのラブ波を主題にした。この講演のあと、どんぶり一杯の生うにをご馳走になったのも忘れられない。うにを賞味するのは日本とチリだけではないかと思う。
1972年の夏二度目のチリ訪問で局地地震のコーダ波をみてカリフォルニアと較べてその減衰が明らかにながいことを見つけ驚いた。その直ぐ後日本を訪問し、地震研究所で辻浦さんの地震波スペクトルをオクターブバンドに分けて連続的にとる装置の記録をみて、パークフィールドの余震から見つけたコーダの減衰の地震にも観測点にもよらないことが確かめられた。このことをボストンへの帰り道でイートンに報告しサンアンドレアス断層帯でコーダの減衰を調べることを提案した。この夏の訪問旅行を昔アフリカで奴隷をあつめ、カリブ海の島の砂糖黍つくりに使い、その産物をボストンでラム酒にした故事に倣って、当時の日記に“三角貿易”と書いたが、私の研究生活で大事な旅行であった。1974年のノールウェイ訪問でそこの局地地震のコーダの減衰が日本やカリフォルニアより一桁ゆっくりしていることを見つけ、この減衰を表すコーダQというパラメターが地殻の地震活動度と密接に関係していることを確信した。
その頃MITで航空工学の学生であったスイス出身のベルナール シュエーが不景気のためか火山学に転向し、学位論文のテーマをさがしていた。彼は私のコーダの減衰についてのアイデアを即座に理解してくれて、サンアンドレアス断層帯に設置した辻浦さんのスペクトル地震解析装置で得られた記録を調べてもらい、その結果がコーダ波理論の出発点となる1975年のJGR論文となった。不思議なことに、正規の地震学のコースを取っている学生達はコーダの研究を嫌った。コーダ研究で大事な役割を果たしたシュエーや東北大学教授の佐藤春夫さんはそういうコースをとらなかった人たちである。此処にも主流から出たり入ったりすることが科学の進歩のために必要だと感じる。
1973年アメリカの地震予知研究プログラムが発足した時、サンアンドレアス断層帯でのコーダQの測定結果を中心とするプロポーザルを書いた。しかし当時はダイレイタンシー理論とかVp対Vsの比が中心課題で、最初の審査会に委員として参加した時、私のプロポーザルは地震予知に関係ないとして除外されていたのにがっかりして、この審査会のあとの日記に“私の一生は失敗でした。地震予知のためには地殻の微細構造を先ず理解することが大事と思ってMITで7年間色々試みたが、これは遠廻りをしすぎた”と書いたが、そのとき出されたアイデアで生き残っているのはコーダQぐらいではないかと思う。
しかしその頃はコーダQが直接地震予知に役立つとは思っていなかった。その可能性を思いついたのは10年位あとアンシュウ ジンに会って、彼女の唐山地震の前の経験を聞かされた時である、彼女との最初の出会いは北京での国際会議のとき、黒板に“歓迎安芸先生”と大きく書かれてあった地球物理研究所の一室で学生達と楽しく懇談したときであった。微小地震の振幅から測るマグニチュウドとコーダの継続時間から測るマグニチュウドとが1976年の唐山地震の前異常な違いを示して驚いたと聞いたので、コーダQが直接地震予知に役立つかと思い始めた。同じ頃カムチャカの大地震の前にコーダQが異常な変化を示すというグーセフの論文もその考えを支持した。アンシュウと佐藤春夫さんとグーセフとシュエーはその後20年以上の私の研究生活に大事であった。
アンシュウとの二度目の出会いは1985年夏、北京から雲南まで一月かけた講演旅行で通訳をしてくれた時である。その頃北京のホテルには冷房がなく、その暑さと温かいビールには閉口したが、中国の地震学者の私の講演に対する強い反応は楽しかった。この時中国全土のコーダQの分布図を作るという計画が生まれ、アンシュウによって実行された。この結果はBSSAに出したが、20年たった今でも私にとって新鮮なアイデアの源となっている。
地震トモグラフィーの出発点となった1974年夏のノールウェー訪問では美しい野の花で一杯のカリハウゲンというオスロー郊外で家族と共に魚釣りやきのこ狩りなど自然を味った。そこへ行く途中イギリスのケンブリッジで開かれた理論地球物理の国際会議に出席してチェルノフ理論やコーダ波理論とその応用について話した。その会で覚えているのはフリーマン ギルバートが“地震学者は気象学者より幸せである、何故ならすべてを線形理論で説明できるから”という言葉である。1989年のロマプリエータの地震の時、土質学者が昔から主張していた地盤における強振動の非線形性を震源と伝播と地盤の影響の三つの効果についてのそれまでの私の研究結果を統合した方法て〔ママ〕地震記録から見つけ、BSSAにジェームス チェンと共著の論文を書いたが、当然地震学者の反応は否定的で、それが受け入れられるのには10年かかった。
ケンブリッジからカリハウゲンに行くのに船で海を渡ってフィヨルドの町ベルゲンに泊まり魚達が幸せそうな水族館を見物し、汽車で山を越える時昔から好きだったグリ・ク〔ママ〕の音楽が流れてきて楽しかった。カリハウゲンの粗末なバラックの一室の片隅に座った最初の朝オイシュタイン ハッサビーからP波の到来時間が震源位地〔ママ〕と観測点によるということを示す表を頂いた。これを見て即座に地震トモグラフィーの三次元構造の可能性に気がついた。この発想には前に述べたチェルノフ理論による三次元の不均質の存在についての確信と丁度その頃テッド マドンと一緒にはじめたMITでの逆問題のコースでモデルのパラメターが多くても、レゾリュウション マトリックスという考えで取り扱えると習っていたことが役立った。
オイシュタインはこのアイデアの重要さを理解して、私の作った計算機プログラムを改良したり、親友のスウェーデンの統計学者クリストファソンを研究仲間に引き入れた。クリストファソンはダムピングをかけた最小自乗法に懐疑的で、合意に達するまで2年位かかったが、その時の数々の議論のお陰で1977年JGRに出た論文は説得力のあるACHの方法という三人の頭文字で引用されるものになった。私は議論というものを無駄なことと思っていたが、この経験で科学の発展に重要であることを教えられた。
このノールウェイで1974年に生まれたアイデアは次の年の夏USGSのウイリー リーとの共同でカリフォルニアの地震のデータ解析に応用され、震源パラメターと構造パラメターを同時に決めるという局地地震トモグラフィーに独特な問題の出発点となった。この時ボストンから車の上にセールボートを載せて行き、カナダの湖で遊びながらアメリカ大陸を横断した。この大陸横断旅行は二度目のもので、1968年の最初の横断では、サンフランシスコまで行くのに10日位かけたが、モテルのプールで泳ぐこととその後のウイスキーの繰り返しで毎日3箱吸っていた煙草をやめることが出来た。
ウイリー リーは香港出身で、若いとき独りでカナダに行き、高校から始め、カリフォルニアのサンディエゴで学位をとった。彼の学位論文の審査員の一人が地殻内部の水平不連続面に沿う大きな滑りの原因についてのハーバートとルービー共著で有名な論文のルービーであることを最近知った。彼は当時NSFのコンサルタントで日本に来られ、丸山さんの大学院生活を支持し、地震の震源に関する古典的論文を生むことになる資金を頂いた。
ウイリーはその後1980年の夏セミナーを主催して当時の私のMITの学生ぐるみメンロパークに招いてくれた。その時の講演で私はコーダQの重要性について力説したが、USGSには受け入れられなかった。次の大事な出会いは1992年のランダース地震のあとヨンゴン リーの断層帯に捕われた地震波の研究を助けてくれた時である。彼の開発した多数の地震計を設置してデジタルに記録するシステムを活用することが出来た。
このようにMITでの研究生活は順調に発展していたにも拘わらず、時々原因不明の酷い絶望感におそわれた。それから逃れるためニュウトンの大きな静かな墓地を散歩している時、私は地震学を楽しく美しくするために生まれてきたと自分に言い聞かせ、リチャードと共著の“定量地震学”に真剣にとりかかることになった。リチャードが共著者になることを承諾してくれた時、これで地震学の主流にはいれると思った。私は独りでは何も完成することが出来なくて何時も誰かの助けが必要だったが、そのお陰で沢山の親しい友達ができたと思う。
MITでの研究生活で重要であった地震の震源過程についての理論の出発点は現在日本の火山噴火予知の主役を果たしておられる井田さんである。その次は1985〔ママ〕年の兵庫県南部の地震のあと日本の地震予知プログラムを革新するのに主役を演じられたた〔ママ〕浜野さんで、この二人のMIT訪問のお陰でシャミタ ダスと一様でない断層面から生ずる地震波を理論的に研究する手がかりが得られた。その結果はバリヤー モデルとして地震工学の学生アポストロス パパジオルジュの学位論文に受け継がれ、地震による強振動の予測に役立つことになる。このように色々な人と一緒に仕事をすることを最近頂いたボービーメダルのお祝いの席でトム ジョーダンに俳句の連歌のようだと云はれた。
第三章 再度の脱出
第4章 最後の脱出
第5章 完成
あとがき
灰色の雲の下に横たうインド洋を黄金色に輝かせて日が又沈む。
付録:記念書版の第1章末尾
「安芸敬一先生を偲ぶ会」の記念書に掲載された版では、第1章は「…一生が不幸になってはたまらない。」のあと、以下の段落で終わり、第2章以降は章題のみとなっている。上の本文ではこの部分が「私の蒔く種を育ててくれた土壌として…」の段落に差し替えられている。
私の母は横浜染工所という横浜一の高い煙突のあった工場を創った事業家の長女で、祖母耕野と同じ御茶ノ水の学校に通う電車のなかで東大に通う父とめぐり合ったという。この恋愛結婚をし遂げた母も時代の先端を行った。大不況の1930年初期を鬼怒川改修事務所で仕事を始めた父と茨城の下館と下妻で過し、私が5歳の時山梨の市川大門という所に移った。そこで父は後に岩波書店から出版された“河相論”という学位論文を書いた。その頃母が私に山羊のミルクを飲ませたのを覚えている。父と母はよく散歩して父が大声で歌うのを母が恥ずかしがっていた。父から習った歌で覚えているのは土井晩翠の諸葛孔明を歌った“秋風悲し五丈原”である。前に述べた水戸高校のストームで何か歌えといわれてこれを歌った。土井晩翠の“荒城の月”は私が太宰治の書いた劇“春の枯葉”の少年の役で水戸高校の記念祭の舞台で歌ったので今も懐かしい。この劇で“歴史は繰り返すなんて、お前、弁証法を知らないな”という台詞と、当時マルキシズムが若い人に与えていた影響の深さを思い出す。
父から習ったのは歌のほか。グラフに描いて説明してくれた微係数である。微分というものの概念を幼い時に知ったことは後年物理数学を直観的に理解する助けとなったと思う。